2008年12月16日火曜日

現象学に関心をもってくれる人たちのために -Piet Hut

現象学に関心を持ってくれる人たちのために
A very brief introduction to phenomenology

科学は実証に根ざした学問です。科学は、実験をよりどころにしています。これを、科学は人の経験をよりどころにしていると言いかえてもいいのですが、では、科学が人の経験として、その経験を形づくる構造にきちんと向き合ってきたか、というと、そうとは言えません。科学が扱うのは、ただ、観測の対象となったもの、客体のみです。

わたしたちの経験は、ふつう3つの部分で構成されています。ある人が、あることを、経験する。この、主体‐客体‐行為の構造は、ことばで表現してみると、わかりやすいですね。わたしは、テーブルを、見る。彼は、ボールを、投げる...。

ところが、科学者が観測したものについて語るとき、彼らが語るのは、観測したものについてのみです。「科学者は」という部分と、「観測した」という部分をはしょって、彼らは、ただ、観測したものについてのみの仔細を記述していきます。

わたしたちは、こういうやり方を「客観的」と呼んでいます。が、実はこれは単に間主観的であるに過ぎません。これはどういうことでしょうか。

ある物についての観測があるとします。その観測結果について多数の科学者が合意したとき、わたしたちは、その物体に関する客観的な知識を得た、という言い方をします。ですが、これは、ほんとうは、ある観測に対してある集合的な合意が得られた、間主観的な合意に至った、という言い方をしたほうがいいのかもしれません。

厳密な意味で、なにかについて客観的知識を得る、というのは不可能なことです。知識は、それがどんなものであれ、すべて、ひとりひとりの人間が持っている個々の知識を比較吟味することによって形作られる、そういうものだからです。

科学がものの構造について研究するのと同じように、現象学も、「主体」の構造について研究しています。現象学の方法も、それぞれの現象学者が、それぞれが行った観察を比較しあうという意味で集合合意的、間主観的かもしれません。そうであるなら、現象学の方法もまた、科学と同じように「客観的」だと言えるかもしれません。客観性を、専門家集団が集まってよし、という合意に至ること、間主観に至ること、そう定義できるなら。

物体について研究する現代科学は、400年の歴史を持っています。現象学は、まだ生まれて間もなく、人の経験に関して、主体‐行為‐客体がどう構成されているのかを研究するための確立された方法論があるわけでもありません。

フッサールは、「判断を一時停止する」やり方のひとつとして、「エポケ」を提唱しました。これは、世界を、それがリアルか、そうでないのか、あるいは、物質やエネルギーの本質は何か、そういった問いをいったん置いておいて、ただ、あるがままに、自分の意識に与えられたものとして理解してみようとする試みです。このフッサールのエポケが、はたして(科学)研究に貢献するものに成長していくのかどうかは、この先の発展を見守るほかありません。
エポケを試してみましょうか?

公園を散歩するなど、ちょっと息抜きをしましょう。まわりを見まわします。最初に、世界は時空にちらばる物質の分布だと考えて見てみましょう。次に、光が構成したものだと考えて世界を見てみましょう(写真家は世界をそういう風に眺めているんでしょうね)。次に、意識に現れる夢のようなものだと捉えてみましょう。最後に、「単なるみかけ」として見てみましょう。なにも意識してはいけませんよ。自分がなにをしているかとか、誰かが見ているかもしれないとか、雑念は一切ふり払うこと!

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