Haruka McMahon さんに、鴻上尚史
の『「空気」と「世間」』(講談社現代新書 2009年)をとりあげていただきました。1.『「空気」と「世間」』概要
日本には「世間」という言葉があります。それはかつては自分の行動を規制する抑圧であると同時に、その規制に従っていれば自分を支えてくれるという保障でもありました。
けれど現代においては、社会全体の経済的・精神的グローバル化により「世間」が自分を支えてくれるという構造が壊れ、代わってその正体がよくわからないのになんとなく従わされてしまう強制力だけをもった「空気」という言葉が流行りつつあります。
この本では、そうした「空気」の強制力を相対化することで対抗することを提言しています。また崩壊した世間や空気に代わって自分を支えるものとして、複数の共同体にゆるやかに所属することを勧め、そのためにはそれぞれ違った価値観を持つ共同体の相手に対して、世間ではなく社会にむけた言葉で自分の思いを語る必要があるとのべています。
2.ディスカッションを通じて
ディスカッションの中で、参加者の間からいくつかの疑問点や質問の提示がありました。時間の制約もあり、その場で全て拾い上げ、結論づけることはできませんでしたので、あらためてここで取り上げてみたいと思います。
■ なぜ「状況」や「TPO」ではなく「空気」なのか?(Hiroshi Kumakiさん)
その場の状況を把握できず、TPOに応じた行動ができない人が、しばしば「空気が読めない」と非難されます。けれど、なぜ「状況が読めない」「TPOが読めない」ではなく、よくわからない「空気」というものが持ち出されるのでしょうか?
私が思いついた理由は2つです。
(1) 「空気」という言葉の(本義上の)具体性
「状況」「TPO」といった抽象名詞ではなく、「空気」という「物質として存在するもの」をさす言葉を使うことで、より「読むべき空気が実際に存在する」という感覚を強めている。
(2) 「空気」という言葉の婉曲性
「状況」「TPO」といったその物ずばりをさす言葉よりも「空気」という本来別のものをさす言葉を言い替えとして転用することで婉曲性を強め、そのことでより強制力を強めている。
(ダブルミーニング&ダブルスピーク)
(正体のはっきりしないものが強制力をもつ構造については、第1章のスライドを参照)
まだこれ以外にもあるかもしれません。
■ 「世間」は日本以外にもアジア全般にあるのか?(marube Ohさん)
日本における「世間」のありようと、西欧キリスト教社会において「世間」が追放されていった過程については、第2章で詳しく説明されています。では日本以外のアジア各国には、「世間」と呼ばれるものはあるのでしょうか。あるいは(カフェでは出ませんでしたが)アフリカやオセアニア、南米、イスラム圏など、西欧以外の文化圏では?
イスラム教は一神教ですから、世間に関してはキリスト教と同じような社会構造になっているかもしれません。あるいは独裁君主を抱くような国家では、独裁者が一神教の神と似たような役割を果たすのかもしれません。marubeさんによれば「人の意見に流されるというのは東アジアには多いのではないかといわれた」との事。これはまた、Memo Parnallさんからは「一神教ではない社会がグローバリズムによって破壊されたら(世間・空気的なものに)なるのではないか」という意見もいただきました。
その他、Hiroshiさんによる「世間」という言葉の意味の変遷や、Memoさんが大学の授業で学生から取ったアンケートの話など、興味深い話題がいくつもありました。
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