「芸術とは何だろうか」
自身、SLとRLでアーティスト、美術家のComet Morigi さんに、SL日本語圏初の芸術トークとして、芸術とはなんだろうかというテーマでディスカッションを進行していただきました。
ディスカッションログはこちら: 2010_2_9_アート1 ログ.doc
サマリはこちら→
[サマリ]
これまで、SL日本語圏で、芸術の在り方について話し合う場を見かけませんでした。
「芸術とは何だろうか」と呼びかけて、集まった方々の芸術観を聞かせていただくことで、SL日本語圏・芸術の現状を見たかったので、会場構成が、語り手と聞き手に分かれぬよう、みなさんも私も同じ方向に向く、スタジオ番組や集合写真に似た席にしました。
「芸術とは何だろうか」と呼びかけて、集まった方々の芸術観を聞かせていただくことで、SL日本語圏・芸術の現状を見たかったので、会場構成が、語り手と聞き手に分かれぬよう、みなさんも私も同じ方向に向く、スタジオ番組や集合写真に似た席にしました。
「自分が芸術と思えば、それが芸術だ」とは、ある範囲の人たちから言われる定形句のようですが、意味が限られると思います。大学の美学美術史が、美術館・画商・美術系出版社に就職する、他人に美術をサービスする職に就くための学科だとすると、「芸術は自由だ」「人それぞれの芸術が、それぞれに芸術だ」との声は、アマチュアリズム・美術を職にしない側の声だったのでしょうか(職/食と言う代わりに、社会性・他者性とも呼べるでしょう)。
赤瀬川源平の路上観察「トマソン」も挙がりました。発見を制作の一種と見なしたり、芸術の枠で対象を芸術化できる(デュシャンのレディメイド)とするものです。
子どもの絵や古代エジプト美術が、芸術であるか否かも、芸術を自覚していたか否か(美術史への意識)に関わっていると思います。
以上の見方と美術史の関わりを明かさないと、美術史が作った美術、他者への美術を説きにくいので、その後の展開「美術・メディアアート・ポップカルチャー」の差異について、私からの説明が曖昧になりました(メディアアートの特徴のひとつは、美術史との断絶にあるとされています)。メディアアートは、ポップカルチャーとの境界が、より曖昧です。文化庁が「メディア芸術」を定義して、ゲームやアニメーションなどを含めることで、メディアアートの曖昧さを、さらに増しています。
メディアートを、メディアの珍奇さに頼った作例として、見下しているつもりの人が多いのですけれども、見下しているつもりでいる当の方々もまた、メディアアートのレッテルを貼られて見下されているのは、たいへん皮肉です。
赤瀬川源平の路上観察「トマソン」も挙がりました。発見を制作の一種と見なしたり、芸術の枠で対象を芸術化できる(デュシャンのレディメイド)とするものです。
子どもの絵や古代エジプト美術が、芸術であるか否かも、芸術を自覚していたか否か(美術史への意識)に関わっていると思います。
以上の見方と美術史の関わりを明かさないと、美術史が作った美術、他者への美術を説きにくいので、その後の展開「美術・メディアアート・ポップカルチャー」の差異について、私からの説明が曖昧になりました(メディアアートの特徴のひとつは、美術史との断絶にあるとされています)。メディアアートは、ポップカルチャーとの境界が、より曖昧です。文化庁が「メディア芸術」を定義して、ゲームやアニメーションなどを含めることで、メディアアートの曖昧さを、さらに増しています。
メディアートを、メディアの珍奇さに頼った作例として、見下しているつもりの人が多いのですけれども、見下しているつもりでいる当の方々もまた、メディアアートのレッテルを貼られて見下されているのは、たいへん皮肉です。
セカンドライフとは、ひとつの私企業が創ったメディア作品であり、私たちは、この中に住んでいます。メディアアートが嫌いな人は、始めから「この世界」には来ませんから、ここは、メディアアートの勢力が、外界に比して強くなります。SL一般に、3Dアートと呼ばれているものの大半は、ゲームの舞台装置と区別し難い。さらにSL日本のギャラリー状況としては、メディアアートの意識にもなく、スナップショットによる観光・ファッションの紹介が主です。
「この世界」のグリッドは、いつまで続くのでしょうか。「この世界」の持続の保証が無いままに、作品が売買されています。
(第2回へ続く)
Comet さんの他の作品もご覧ください → http://www.flickr.com/photos/comet_morigi/sets/
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